四天王プロレスと鶴龍対決
「四天王プロレス」
プロレスファンであれば、大抵は知っている言葉だと思います。
最近からプロレスを見始めた人には聞きなれない言葉かもしれません。
その誕生には諸説あります。ちなみに、wikipediaでは…
“四天王プロレスと呼ばれる試合スタイルが初めて行われたのは、1993年7月29日に日本武道館で三沢光晴と川田利明が対戦した全日本プロレス三冠ヘビー級王座タイトルマッチであったといわれる。
僕は、93年8月のスティーブ・ウィリアムスvs小橋建太の試合がそうだと思ってました。
(まぁ、日程的にそんな大差はありませんが。)
この試合は、よく覚えています。
僕は中学生でした。沖縄では木曜日の深夜に放送されていた全日本プロレスでしたが、僕は毎週眠たい目をこすって起きて観ていたものです。そんな眠気もぶっとぶ衝撃の“殺人バックドロップ”。衝撃的すぎてしばらく眠れませんでした。実況の「バックドロップドライバー!!」という絶叫も思い出します。
そして、悲しくも、その試合が沖縄における全日本プロレスの最後の放送となってしまいました(涙)
今、新日本プロレスはものすごい人気を誇っていますが、そのプロレスは、四天王プロレスを彷彿させる危うさが垣間見えます。四天王プロレスは、今の新日本プロレスのスタイルにも繋がるほど大きな影響を与えたプロレスだと思っています。
僕ごときがそんな四天王プロレスを語るなんて、烏滸がましいのですが、個人的に思っている、四天王プロレスのストーリーを書いてみたいと思います。
僕は、ミル・マスカラスの影響で全日本プロレスを見始めましたが、完全に全日本プロレスの虜になったきっかけは、龍原砲と五輪コンビの激しい戦いでした。新日本プロレスもちょいちょい観ていたのですが、子供ながらに、全日本プロレスの質の方が好きでしたね。
今でこそ、パチーン!と音が響く逆水平チョップはよく見られますが、この頃の天龍さんがその打ち方の元祖だと思います。
天龍さんは対輪島大士戦でも容赦のない顔面蹴りとチョップを繰り出し、その試合をみた前田日明さんが危機感を覚えたという有名なエピソードがありますね。
また、お互いの格を保つための両者リングアウトや反則決着など、いわゆる不透明決着を良しとしない風潮も強まり、試合内容も、より濃いものを求められていたとのだと思います。まして全日本プロレスは、マイクパフォーマンスもしないという (もちろん、ラッシャー木村さんのマイクパフォーマンスがあったことは知ってますよ。)、新日本プロレスとは真逆のスタンスをとっていたので、より試合内容を突き詰めていかなければいけなかったのではないかと言われています。
要は、四天王以前からハードヒットなんですよ。全日本プロレスは。
全日本プロレスは「明るく、楽しく、激しいプロレス」をモットーにしてましたが、その激しさには毎度毎度感動していたものです。僕は、この『激しさ』が四天王プロレスの核となる部分だと思っています。その源流が鶴龍対決だと思うのですよね。
まぁ、あくまで個人的な見解です。
今回はこんな感じですかね。情報量としてはかなり少なくてこれでいいのかとも思うのですが、続きは次回に。
それにしても、youtubeでは普通に鶴龍対決が観れますね。
良い時代になったものです。