11月24日、僕は宮古島にいました。
その日は、祖父の四十九日の法要があり、葬儀に参列できなかった僕と僕の妹もようやく合流し、久しぶりに親戚一同が集った。
僕は愛知、妹は東京。
実は、祖父が旅立った日、二人ともすぐに宮古島へ帰る予定でいた。
ところが、その亡くなった日のあたりは、日本各地で台風の被害がでており、それは空の交通にも混乱を生んでいた。
台風が過ぎ去って1週間以上は経っていたはずなのに、宮古島行きのチケットが売り切れで、さらに、もうひとつの手段である、那覇経由の乗り継ぎルートは、チケット代の高騰が影響し、片道だけでかなりの金額を必要としていた。
父や親戚のおじさんも事態を把握し、葬儀は無理せずに、四十九日の時のチケットを今から予約しておいて、その日に来ればいいという事になった。
とは言うもの、やはり最後ぐらいは行ってやりたかった。今行かなければ、ずっと後悔するのでは?とも思った。
心の中で永遠となった祖父に相談してみる。祖父はいつものように初めは残念がるも、「いいよ。四十九日のときに来たらいいさ。」そう言った気がした。祖父ならそう言うに違いない。あの思いっきりの笑い声で。
叔父(祖父の長男)以外は、皆、宮古島を離れている。だから全員が飛行機での移動だ。
10時半ごろ、僕は一番乗りだった。
うちでは叔父がせっせと掃除をしていて、僕を見つけるなり「お!?電話くれれば迎えに行ったのに。」と、うるさかった掃除機を止めて言った。僕は空港からタクシーで来ていた。なぜそうしたのかは、特に理由はない。
僕はすぐに仏壇へと向かい、線香をたて、揺れる線香の煙の向こう側にいる、祖父の遺影を見つめ、だいぶ長い時間会話をしていた。
少しだけ泣いた。
隣のキッチンでは掃除機の声が轟いていた。
そういえばこの部屋は僕が幼稚園の頃に、学習机を買ってもらって置いていた場所だ。当時、窓際にはジュースやお酒の空き瓶が置かれていた。あの頃は1.5リットルも瓶のタイプがあった。それを回収に来る業者みたいなのがいて、祖母がその空き瓶を売ってお金にしていたのを覚えている。
それにしても、遺影の祖父は、やたら若い。直近の写真はなかったのかと聞くと、いいのがなかったらしい。祖父は91歳で亡くなったのだけど、遺影は5~60代だ。
ま、うちらしいっちゃ、うちらしいか。
隣のスーパーで、愛知では食べることのない「タンナファクルー」と、祖父の好きだった海鮮せんべいを買いに行っている間に、いつの間にか、親戚を含め、みんな揃っていた。僕は、お坊さんが来る前に、と、祖父の好きだった海鮮せんべいを仏壇に供えた。
時間を少し遡る4月のこと。
祖父に余命が告げられ、それを聞いた僕は元気なうちに祖父に会いたいと思い、宮古島に帰っていた。
その時、「これが一番うまい。食べなさい。」と、小皿ではなく、キッチンのテーブルにそのままこぼして、それを摘んで食べていたのが、この海鮮せんべいだった。確かに美味しかった。
この時もたくさんお話した。
比嘉大吾が体重超過で王座を剥奪されたこと(比嘉選手は宮古島で学生時代をすごしているので、宮古島全体、応援に熱が入っていた)。実はその日は、僕の誕生日であることを覚えていたこと。僕の息子のこと。愛知のこと。僕の体調のこと。
たくさんお話しをした。
そして、少し疲れたといって、自分の部屋へ戻り、眠りにつく。いつものように、ボリュームをマックスに近い状態にしたラジカセから流れる昭和歌謡を聴きながら。
僕は隣の部屋でipadをひろげ動画を観ていた。そして、やがて僕もいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
ハッと目を覚ますと、祖父はまたキッチンのテーブルに海鮮せんべいをばら撒いて、それを摘んで食べていた。
僕はそれを後ろから見ている。
祖父は、座ったまま、ジッ…と目を閉じ、時を旅しているように見えた。
いったい、何を思いだしていたのか。
下段、右から2番目が祖父。その隣が祖母。
僕は、実の父の事を知らない。物心をつく前から母方の実家、つまり祖父の家ですごしていて、祖父は僕にとって怖い父親のような存在だった。とはいっても、もちろん基本は優しいし、滅多に怒らないけど、怒ったときはさすがに怖かった。
でも、僕が火遊びで母の部屋でボヤを起こしたときは怒らなかったな…。
幼かった頃、晩御飯は祖父、祖母、僕の3名で食べることが多かった。
なにやら祖母がグチグチ言ってるのを、時には笑ってごまかしたりしていた印象がある。祖父と祖母は、会話が多い夫婦だったと記憶している。
大工の仕事をしていて、親戚のおじさんが言うには、技術が高かったので、信頼されていて、還暦をすぎてからも、しばらくは力を貸してほしいと現場に呼ばれていたらしい。
そういえば、この家のいろんな部分も祖父が手を加えている。いわゆるリフォームだ。
また、祖父は戦時中に今で言う高校生ぐらいの年齢の時に佐世保の造船所で働いていて、経緯は聞いていないが被爆している。
つまり、被爆者だ。
こんなエピソードがある。
妹がまだ幼かった頃、祖父は急激に髪の毛が抜け(これが被爆の影響かどうかはわからない)、部分的に一気に禿げた。そんなある日、妹が突然祖父の頭をなでながら、「おじぃのあたま、はげてるね~。」と言い放ち、周囲を爆笑させた。もちろん祖父も笑っていた。
とにかく笑うときは笑い声が大きく豪快だった。
いつだったか、僕、妹、叔母の息子二人、要するに孫が全員集合した日に、テレビで志村けんのバカ殿をやっていて、みんなで爆笑したのをすごく覚えている。
そっか…。もう会えないし、もうあの笑い声は聞けないのですね。
今頃、祖母とあの頃のように、いっぱいお話をしているのだろうか…。
時間を11月24日に戻します。
お坊さんが来て、法要を終えたあと、夜、親戚やいとこのみなさんが来てくれて、手を合わせてくれた。
ひと段落すると叔父と飲みに行き、帰ると、もう午前0時を回っていた。
祖父の部屋からは、あの大音量の昭和歌謡はもう聞こえない。
以前より静かになったはずなのに、逆になかなか寝付けない。
また少しだけ泣いた。
宮古島にいる間、「忘れたくない」そういう思いが強くて、部屋の隅々を記憶したくて、ウロウロとうちの中を徘徊した。
妹に、ここでこんな出来事があったのだと、たくさん話した。
屋根裏にはたしか大量のレコードがあったはずと、覗いたけどなにも無かった。
今ではスーパーの敷地になってしまった部分も、ここは元々は我が家の畑だったことを思い出し、バッタや蝶を追いかける僕を重ねた。
あ!と思った。
どうやら時を旅していたのは僕の方だったようだ。
みんながそれぞれの生活の場所へ帰った次の日。
「また来るね。」
そう言って僕は宮古島を後にした。
そして僕は日々へと帰ってきた。
でもね、心を探ってみると、聞こえてくる。
祖父のあの笑い声と、大音量の昭和歌謡が。
♪しずかにしずかに、手を取り手を取り
あなたの囁きはアカシヤの香りよ
アイラブユーアイラブユー
いつまでもいつまでも
夢うつつ彷徨いましょう
星影の小怪よ