2018年9月18日 火曜日
ショックでした。
ほんの2~3週間前に癌であることを告白し、療養しているという情報があったばかりでしたので、あまりにも突然で、本当に残念で悔しく、そして悲しいです。
正直なところ、初めて彼の試合を観た時には、僕はあまり彼を好きにはなれませんでした。しかし、K-1に参戦しだしたあたりから、躍動感にあふれる身体能力と、印象に残るKO劇を連発し、レスリングをベースにした総合格闘技の選手でありながら、当て勘に優れ、世界で活躍する姿は、間違いなく、格闘技史上に残る、特別な輝きを放っていたと思います。
今回は、そんな山本“KID”徳郁さんを偲び、僕の記憶の中にある彼の軌跡を辿りながら、彼の前に散り、彼の前に立ちはだかったツワモノ達を紹介してみたいと思います。
修斗
まずはじめに、あなたは「修斗」をご存知でしょうか?
初代タイガーマスクである佐山聡さんが、格闘技理論研究の為に設立した「タイガージム」から始まった、日本総合格闘技の歴史そのものとも言える総合格闘技団体です。
ちなみに、「修斗」の意味は「斗(たたかい)を修(おさ)める。」からきてます。
wikipediaにある文言を一部引用すると、、、
当時、関節技などのサブミッションホールドはプロレスにおける裏技的なものであり、プロでも「技は教えてもらうものではなく盗むもの」という風潮があり、やられることによって逃げ方を覚え、後輩にかけて覚えるという感じで技術体系が確立されていなかった。しかし、佐山はそのプロの技を一つ一つ言葉で説明して体で実践して生徒(素人)に教えた。これが現在の総合格闘技の源となっており、この佐山の大きな心がなければ現在の格闘技は存在し得なかった。
最後の「…現在の格闘技は存在し得なかった。」って言葉が凄みを持たせていますね。
1999年、僕は群馬県で暮らしていました。
その当時、テレビ東京で「格闘コロシアム」という番組が放送されていて、 その番組で、修斗の「佐藤ルミナ」という選手が、頻繁に特集されていました。
ルックスもよく、強くて、カリスマ性のある選手でした(現在は引退されてますが、7月のRIZINでTV解説されてましたね)。
近所にあるレンタルビデオ屋さんで、偶然にもその佐藤ルミナの試合が収録されたビデオを発見し、そこから僕は修斗をよく観るようになったのです。
あの当時の修斗は佐藤ルミナの他に、エンセン井上、朝日昇、桜井“マッハ”速人(ここまで「修斗四天王」)、宇野薫、中尾受太郎、巽宇宙など、魅力的な選手も多く、僕はすぐにハマりました。
しかし、仕事が忙しくなるにつれ、ビデオを借りることもなくなり、そのレンタルビデオ屋さんも、全く修斗の新作ビデオを入荷しなくなったので、僕はいつしか観なくなっていったのです。
修斗にいるヤバイ奴
2003年。
ボブ・サップvs曙が紅白歌合戦の視聴率を上回るという歴史的な瞬間が訪れ、大晦日の格闘技興行がもっとも成功した年。
格闘技ブームの風が吹き荒れる中、僕は「サルでもわかる総合格闘技入門」というサイトに出会いました。
1984年の旧UWF(第1次UWF)が設立される経緯から始まり、2003年大晦日の曙VSボブ・サップまでの格闘技界の流れを、年別、そこからさらに月別に解説していた良サイトでした。
元々は、サイト運営者が、格闘技ブームの流れを受け、格闘技を好きになってくれた友人に対し、日本格闘技界の流れを説明するために立ち上げたサイトだという記述があり、HTML覚えたての初心者でも作ることができそうな、非常に簡易的なサイトでしたね。
「CSS?なんですかそれ?おいしいのですか?」って感じです(笑)。
現在は閉鎖されていますが、僕はその「サルでもわかる総合格闘技入門」で殆どの知識を得たので、閉鎖はとても残念です。
K-1ではありますが、ものすごく似てるサイト発見!っていうか、まったく同じデザインと構成です。年別・月別に歴史をたどる…。これですよこれ!これ作成している人は、僕の言っている「サルでもわかる…」の作成者と同一人物で間違いないと思います↓↓↓
そんな優良サイトで僕は、山本“KID”徳郁さんの名前を初めて目にするわけです。
この頃はまだ一般的には無名の存在で、その「サルでもわかる…」でもほんの数行の記述で終わっています。
こんな感じだったと思います。
ちなみにまだ無名だった五味隆典選手や川尻達也選手も同じような書かれ方をしてたと記憶してます。
(まだ無名だったのに、その3名の名前を出せるサイト運営者は本当にすごい格闘技が好きで、見る目のある方だったんだな、と思っています。)
僕は前述の通り、かつて修斗を好んで観ていたことから、なんとなく興味をもち、その名前を覚えていました。
ある日、バイト先にたまたま格闘技好きの子がいて、休憩時間が被った時には、プロレス・格闘技の話しに花を咲かせていました。
すると、なんとなんと、山本“KID”徳郁さん(以降「KIDさん」)の試合が収録されているビデオを持っているというではありませんか!
久しぶりに修斗を見たいという気持ちと、KIDさんの試合が収録されているということもあって、僕はその子からビデオを借りて、遂に、初めて山本“KID”徳郁さんの試合を観るわけです。
その試合が、勝田哲夫戦です。
youtubeにも動画がアップされている有名な試合です。
この試合、ゴング直後の打撃からグラウンドに持ち込んだKIDさんは、終始、上からパンチを振りかざし、1ラウンド2分45秒でTKO勝ちを収めるのですが、エプロン付近で完全にグロッキー状態になった勝田選手に尚も襲い掛かかり、審判が制止に入りゴングが乱打されるなか、止まることなく、舌をだしながら鉄槌を振り下ろす姿に、、、
「こいつは確かにヤバい奴や!」
と驚愕したものです。
この記事を書くときに知ったのですが、勝田さんが試合前に「彼は実績があるけど、俺が総合格闘技におけるレスリングってものを教えてあげますよ。」という挑発をしていて、それに対してプライドを傷つけられたKIDさんは激高し、このような事態になったようですね。
ただ、僕はこの試合を観て、正直あまり好きになれなかったのですよね~。
やり過ぎな感は否めなかったです。
頭部へのダメージは、下手したらなんらかの障害を残しますからね。
そんなデンジャラスな雰囲気をプンプンと漂わせるKIDさんが、当時、一大ムーブメントを起こしていた「K-1」に登場するわけです。
衝撃的だったK-1デビュー戦
2004年。K-1 WORLD MAX 2004 日本代表決定トーナメント。
すでに世界王者に君臨していたため、中量級エースの魔娑斗さんは不参加。
しかし、さすがK-1。ずらりとならぶ実力者。
KIDさんはそんなトーナメントに参戦することになるのですが、まずはその実力者達を数名ご紹介。
<小比類巻貴之>
「ミスターストイック」と称され、線香の束を腕に押し当てるという訳の分からない独りデスマッチを敢行したことで有名な小比類巻貴之さん。
実は全日本キック(という団体)時代では魔裟斗にも勝利している。あと、僕はキックは詳しくないのですが、なぜか「地獄の風車」こと故ラモン・デッカーさんの事は知っていて(強いです)、彼にも勝利してます。
話しは逸れて長くなりますが、ラモン・デッカーは、ムエタイの本場タイでKOを量産し、タイで外国人としては当時2人目(ちなみに1人目は日本の藤原敏男)となるタイトルマッチを実現しています。負けちゃったけど。
<武田幸三>
見事に作りこまれた体で「超合金」の異名をもつ武田幸三さん。
実は学生時代はラグビー一筋。
ムエタイの本場タイでチャンピオンにも輝いていることもあり(当時のムエタイの歴史上4人目の外国人チャンプに輝く)、このトーナメントのウルトラスーパーエクセレントオベーションジーザスクライスト優勝候補。
小比類巻と武田幸三が同じブロックに入ったのはちょっと残念でしたね。
できれば、決勝戦でこのカードみたかったかも。
まったくの余談ですが、個人的に小比類巻さんは、キック界の佐々木健介臭がします(笑)。
強いと思うよ。強いとは思うのだけど・・・って感じです(笑)
他にも、シュートボクシングの実力者、緒形健一さんもいますが、KIDさんが一回戦で対戦した相手が、村浜武洋さんです。
村浜さんは、シュートボクシングでは無敵の時期があり、K-1では「前田憲作」さんにも勝利しています。
あの、前田さんにですよ(判定ではありましたが3-0ですし、二日前に大阪プロレスで試合した後です)。
前田さんといえば、めっぽう強い上にイケメンで、映画版ろくでなしブルースの主演やったりしていました。
魔裟斗さんの前の世代のスーパースターでしたが、wikipediaには「10年前の魔裟斗」なんて書かれ方をしています。
その試合はニコニコ動画で今でも観れます。(久しぶりに観ましたが、レフェリーの猪狩さんの方に目がいってしまう(笑)懐かしいですね。今どうしているのだろう。何かの本で、初代タイガーマスクとの異種格闘技戦の相手として候補になってたというのを読んだことあります)。
そんなわけで、当時、村浜さんは大阪プロレスに参戦中だったとはいえ、立ち技のエリートであることは間違いなく、いくらKIDさんでも、立ち技オンリーの世界では勝てないだろうと思っていたのですが・・・
勝っちゃうんですよね~。
それも圧倒的に。
これにはびっくりしました。
改めてyoutubeで観ましたが、ノーガード殺法、躍動感のあるフットワーク、そしてパワーで村浜さんに何もさせずに合計3回のダウンを奪い完勝します(総合のような反則スレスレの攻撃を何度かみせますが)。
この試合にあたりKIDさんは、漫画「はじめの一歩」のブライアン・ホークのモデルとして有名なナジーム・ハメドのファイトスタイルを参考にしていたようですね。
wikipediaに書いてありました。だからノーガードなんですね。
というか、あれを参考にしようとする勇気たるや。しかも髪型まで真似してたようです(笑)。好きだったのでしょうね。
KIDさんはこの試合がきっかけで一気にブレイクします。
あ、実は、K-1ルールでの勝利はこの村浜戦だけというのを付け加えておきます。
「ヤバイ。カッコ良すぎる俺。」
その後、K-1では総合格闘技ルールで安廣一哉など実力者を次々と倒し、ジャダンバ・ナラントンガラグ戦後に、マイクを手に取ったKIDさんはリング上で、あのスーパースターに宣戦布告をします。
「年末、日本のみんな、ちょっとあれでしょ、景気あんま良くないし、年末俺が盛り上げたいから、魔裟斗君、二人で試合でもして、日本を盛り上げましょう。」
と、さわやかに宣戦布告(笑)。
会場は一気に歓声に包まれます。
個人的にはこの後の「日本を盛り上げて、試合終わったら、また渋谷でも行って、二人で飲もうよ。」という発言が好きです。
いや~しかしこの頃のK-1、総合格闘技は、華がありましたね。
そして、2004年12月31日、Dynamite!大阪ドーム。
僕は、仕事の都合でリゾートホテルのロビーでこの試合を観てました。
良い試合ですね~。
一度はKIDさんがダウンを奪うんですよね。
その後の魔裟斗さんのローブローで一瞬不穏な空気が立ち込めるのですが、終わってみれば名勝負となりました。結果は判定で負けるのですが。
翌年、「HERO'S 2005 ミドル級王者決定トーナメント」が開催され、当然参戦します。
思えば、KIDさんは2003~2005年あたりが強さのピークだったような気がします。
「ヤバイ。カッコ良すぎる俺。」で有名な膝蹴り4秒殺の宮田和幸戦は2006年ですが、この2003~2005年あたりが本当の意味で「ヤバイ。カッコ良すぎる俺。」だったような気がするのです。
理由はやはり対戦相手でしょう。
前述した村浜武洋、魔裟斗をはじめ、HERO'Sのトーナメントでは、宇野薫、須藤元気、ホイラー・グレイシーを撃破しましたからね。
ちょっとそのトーナメントを振り返ります。
一回戦の相手です。
あんまり知りません(笑)
「豪州のマシンガン」と言われているようです。
K-1ルールでは須藤元気さんに勝利してるんですね~。知らなかった。
この試合は、序盤ではグランドの展開もありましたが、ほぼスタンドでの打ち合いで終始します。
3ラウンド、強烈なアッパーカットがテンプルをかすめ、ぐらついたところ(なんというパンチ力!)で一気にラッシュ!KO勝利です。
二回戦。でました。黒船。グレイシー一族です。
この選手はwikipediaみると日本人とばかり試合してますね。肘が閲覧注意の桜庭和志戦とか、朝日昇とか。
この試合は、KIDさんの当て観のすごさが際立った試合のように感じます。
2ラウンド、開始30秒を超えたあたりでホイラーが放った膝蹴りが頭部をかするも、KIDの振り回すようなパンチがカウンターで顎にヒッツ!
完璧な一撃に腰から崩れ落ちたホイラー。
このトーナメントで最も衝撃的なシーンでした。
<宇野 薫>
準決勝。個人的にはレジェンド級の選手だと思っています。グラウンドに入ったときの雰囲気が好きです。
修斗時代は、佐藤ルミナと共にファッション誌によく登場してました。その佐藤ルミナとの一戦でスリーパーで勝利した試合は、これまた衝撃的で今でも鮮明に覚えています。あの頃の佐藤ルミナはスター選手で、華があり、強かったですからね。
あと実は高校時代、パンクラスの渋谷修身と同じレスリング部に所属してたりします。
この試合、KIDさんはなんかやりにくそうな感じでしたね。プロレスで言うところのスゥイングしない感じでした。噛み合わないというか…。
宇野薫が何度かタックルを試みますが、簡単にテイクダウンを奪われないところがさすがでしたね。
試合はスタンドの状態が長く、2ラウンドの終了間際、両足タックルを切ったあとの離れ際に宇野の即頭部にフック気味のパンチがヒッツ!宇野はガードしますが間に合わなかった。
これにより宇野は目尻のあたりをカット。一時中断しドクターによる止血が行われ続行されますが、出血は止まるどころかおびただしい血の量となり、レフリーストップ。
ゴングのあと、お互い抱き合い健闘を称えあいます。ちょっと完全決着できなかった悔しさがにじみ出てましたね。
KIDはこうして決勝へと駒を進めます。
そして、むかえた決勝戦。
その相手は・・・
<須藤元気>
KIDさん同様、ホイラーからKO勝利してます。
でも僕が思い出すのはバタービーン戦ですね。あれは須藤元気だからできた一戦だったような気がします。体重差100キロ以上なんて、鬼畜です。
バタービーンがコールされたときの実況の「豚のように舞い、豚のように刺す」は名言ですな。
あと須藤元気のドロップキックっぽいのもみれます。
ちなみにこのときの審判は漫画「グラップラー刃牙」の刃牙のモデルである平直行さんでした。
さてこの試合はKIDさんのエンジン全開の試合でしたね。
相変わらず妙な動きをする須藤元気に対して、その周りを回るように距離をはかるKID。
ミドルキックをキャッチしたKIDがグラウンドに持ち込みますが、攻め手に欠け、ここはブレイク。
しかし1ラウンド終了間際、須藤元気が腰の入ってない不用意なパンチを放ったその刹那、カウンターで右のフックがヒッツ!(最後までヒットと言わない(笑))
なおもパウンドで追撃し、KIDが勝利!優勝するのであります。
僕的には、宇野、須藤に勝利したということが大きく、だからこそ、この時期のKIDさんがピークのように感じます。
その後、須藤元気は2戦した後に引退し、KIDさんは、レスリングで北京オリンピックを目指すことになります。
永遠の輝き
ここから先は、残念ながらあまりよくわかりません。
とりあえず、オリンピックを賭けたレスリングの大会で、投げられた際に肘が悲惨な状態になった映像はみましたし、その後、総合格闘技に復帰したのも知っていて、その試合も観てるはずなのですが、覚えていないのです。
UFCに参戦したのも知ってましたが、一度も勝てなかったですね。
改めて調べてみると、結構怪我に泣かされた選手でもあったのですね。それは知らなかったです。
やはり僕の中では、2000年代前半のKIDさんのインパクトが一番です。
あの輝きは間違いなく、格闘技ファン、そしてファンではなくてもブームとしてお茶の間でみていた人たちの記憶に鮮烈に残っていると思います。
沖縄にもジムを設立してたこともあり、訃報後、僕(沖縄出身です)のフェイスブックで「この前みたときは元気そうだったのに…。」という、格闘技に詳しくない人たちからのコメントも散見されました。
格闘技ファンならず、いろんな人がKIDさんの事を知っています。これはすごいことだと思います。
闘犬を反対し、勝利後にはいつも家族をリングに上げ、駅のホームで転落して気を失った老人を率先して助けたり、見た目やビックマウス、狂気的なファイトスタイルとは裏腹に、根っこは愛情豊かな人だったのかなと思います。
山本“KID”徳郁さんは永遠となりました。
また会えるかな…。
あの輝きは忘れられないでしょう。
さよなら。
神の子よ、安らかに。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
動画もアップしました。