たいらじゅんが日記を書くってよ

日記・備忘録、的な。

【備忘録】中部国際空港(セントレア)→宮古空港間のチケットを安く、しかも早く到着した時の方法

 

記事を作成しようとはてなブログへアクセスすると「不倫に誘ってくださったあなたたちへ」という記事がデカデカとあったので、マジマジと読んでました。

ericca.hatenablog.com

 

うむ。感想は言わないけど、表現力がいいなと思った。

 

 

と言うことで、本題に入ります。

 

前回の記事に書きましたが、11月24日、僕は故郷である宮古島へ帰っていました。

jyunbo.hatenablog.com

 

その時、飛行機のチケットを取るのに手こずったのと、次回からはそうしようと思ったことがあるので、備忘録的な感じでここに記述しておきます。

ま、旅慣れしている人にとってはごくごく普通のことかもしれませんが。

 

【もくじ】

 

  

中部国際空港宮古空港間のチケットを安く、しかも早く着く方法。

 この記事を書いているのが12月15日。普通、飛行機のチケットを予約するのは1ヶ月ぐらい前に行うと思うので、1ヵ月後の2019年1月19日(土曜日)を例に考えてみます。

 

セントレアから宮古空港への便は1日に1~2便あります。

当初僕はその直行便を利用して宮古島へ帰る予定でした。ところが…

 

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2019年1月19日は1便のみ。

価格が22,310円で到着時刻が14:30になってます。

ちなみに僕が前回宮古島に帰った理由が、祖父の四十九日の法要があった為で、14:30着だと法要の時間に間に合いません。

真っ先に、前日に出発する事を思いつきましたが、そうそう仕事も休めません。

そこでふと思ったのが、那覇空港経由で帰ること。つまりは乗り継ぎです。

 

では、2019年1月19日のセントレア那覇行きの状況を確認してみましょう。

 

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続いて、那覇空港宮古空港を見てみます。

 

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ふむふむ…。

ここからは、時間帯と価格を加味し、個人によって料金重視、時間重視など選択肢はいろいろあると思いますが、僕はとにかく、午前中には宮古島に着いていたかったので、スカイマークセントレア6:00発→那覇8:30着の便を選択し、そこからは全日空那覇9:35発→宮古10:30着の便を選択します。

 

それを踏まえて、セントレア宮古の直行便と比較してみます。

 

◎直行便

料金22,310円 14:30着

 

那覇経由の乗り継ぎの場合

料金19,510円(2便あわせて) 10:30着

 

となります。

料金は2,800円安く、到着時間に関しては4時間も早く到着します。

 

僕としては、4時間も早く到着できるのは魅力ですね。

 

ただし、僕には注意しなければならないことがありました。それは、、、

 

始発の電車では6:00発の便には間に合わない

 

ということです。

 

 

注意1-早朝便ー

 僕は、車を持っていません。なので、セントレア内で1泊するしかありませんでした。

 

スカイマーク早朝便に乗るため、午前4時10分 名古屋駅発セントレア行のバスに乗ってみた : 絶対に日焼けしたくない!沖縄離島旅行の持ち物

※4時10分に名古屋駅からセントレア行きのバスはありますが、僕の住んでいるところからは不便なので却下。

 

セントレア内は24時間利用可能なエリアと24時間営業のコンビニがあるので、ベンチで白目剥いて、ヨダレたらして、美しき鼻歌と歯の楽器を響かせて、寝ながらしゃべるという特技を披露しながら、拙者のライオンの如きかっこいい眠りを世の中に披露しても良かったのですが、折角なので、昨年できたカプセルホテル「TUBE Sq」を利用しました。

 

tubesq.jp

 

しかも、温浴施設「風(ふー)の湯」の利用券付きのプラン¥4,530で…。

こうなると、安くでチケット取ってもあんまり意味ない気もしますが、何度も言うように、僕は時間重視でしたので、気にしない気にしない(汗)。

 

僕はカプセルホテル初体験でしたが、特に苦に感じることはありませんでした。しかし、風の湯を時間いっぱいの22:00まで堪能したせいで、飲食店が2階の中華料理屋さんしか営業していませんでした。ちょっと残念でした。久しぶりに「味仙」の台湾ラーメンを食べたかったのに…。

 

 

注意2-乗り継ぎー

ところで、皆さんは国内線で飛行機の乗り継ぎを経験したことありますか?

僕は、仕事で何度かあるのですが、あれからだいぶ年月も経っていますし、チケットの予約などは担当者がやってくれていたので僕はほぼ乗るだけって感じだったわけです。

 

宮古島へ向かう2日前にようやく、「そういえば、乗り継ぎってどうするんだっけ?」と思ったので、ネットで調べました。

すると、「搭乗手続きの時に一括で手続きすればOK。」という記述もあれば、「乗り継ぎ先で荷物を受け取ったあとロビーへ出て、再度搭乗手続きをする必要があるので、乗り継ぎの時間には余裕を持って…。」みたいな記述があったのです。

「もしかすると、他社間での乗り継ぎの場合、いったん荷物を受け取って、再度手続きをするのでは?」と思いました。

心配になったので、セントレアを6:00に発つスカイマークに問い合わせてみると、やはり、いったん手荷物受取場から出て、再度搭乗手続き(僕の場合は宮古島へ向かう全日空で)を行わなければならない。ということを教えていただきました。

実は、帰りの飛行機も乗り継ぎで、しかも、乗り継ぎ間の時間が40分ほどしかない状態だったのですこし焦りました(結果、パタパタはしましたが間に合いました)。

元々、手荷物を預ける予定は無かったのですが、手荷物を預けてしまった場合、受取場で待つ時間とかを考慮すると、乗り継ぎを利用するときは時間に注意したほうがいいですね。

 

 

まとめます!(自分用)

中部国際空港セントレア)から宮古島へ行く際、那覇空港経由の乗り継ぎを利用したほうが、安く早く着くことができる。

◎早朝便利用の場合、前日からカプセルホテルなどを利用してセントレア内で1泊過ごした方が便利。

◎航空会社が他社間での乗り継ぎの場合、手荷物受け取り時間、搭乗手続きの時間を考慮する必要がある(できれば1時間は余裕が欲しい)。 

 

こんな感じです。

次に宮古島へ帰るのは、1回忌のときになるでしょう。

それまでにこれ、覚えているかな…。ポリポリ (・・*)ゞ

 

今回の記事の動画版


【備忘録】セントレアから宮古島へ

 

 

【戯言】思い出への旅【懐古】

11月24日、僕は宮古島にいました。

その日は、祖父の四十九日の法要があり、葬儀に参列できなかった僕と僕の妹もようやく合流し、久しぶりに親戚一同が集った。

僕は愛知、妹は東京。

実は、祖父が旅立った日、二人ともすぐに宮古島へ帰る予定でいた。

ところが、その亡くなった日のあたりは、日本各地で台風の被害がでており、それは空の交通にも混乱を生んでいた。

台風が過ぎ去って1週間以上は経っていたはずなのに、宮古島行きのチケットが売り切れで、さらに、もうひとつの手段である、那覇経由の乗り継ぎルートは、チケット代の高騰が影響し、片道だけでかなりの金額を必要としていた。

 

父や親戚のおじさんも事態を把握し、葬儀は無理せずに、四十九日の時のチケットを今から予約しておいて、その日に来ればいいという事になった。

とは言うもの、やはり最後ぐらいは行ってやりたかった。今行かなければ、ずっと後悔するのでは?とも思った。

心の中で永遠となった祖父に相談してみる。祖父はいつものように初めは残念がるも、「いいよ。四十九日のときに来たらいいさ。」そう言った気がした。祖父ならそう言うに違いない。あの思いっきりの笑い声で。


叔父(祖父の長男)以外は、皆、宮古島を離れている。だから全員が飛行機での移動だ。

10時半ごろ、僕は一番乗りだった。

うちでは叔父がせっせと掃除をしていて、僕を見つけるなり「お!?電話くれれば迎えに行ったのに。」と、うるさかった掃除機を止めて言った。僕は空港からタクシーで来ていた。なぜそうしたのかは、特に理由はない。

僕はすぐに仏壇へと向かい、線香をたて、揺れる線香の煙の向こう側にいる、祖父の遺影を見つめ、だいぶ長い時間会話をしていた。

少しだけ泣いた。

隣のキッチンでは掃除機の声が轟いていた。

 

そういえばこの部屋は僕が幼稚園の頃に、学習机を買ってもらって置いていた場所だ。当時、窓際にはジュースやお酒の空き瓶が置かれていた。あの頃は1.5リットルも瓶のタイプがあった。それを回収に来る業者みたいなのがいて、祖母がその空き瓶を売ってお金にしていたのを覚えている。

 

それにしても、遺影の祖父は、やたら若い。直近の写真はなかったのかと聞くと、いいのがなかったらしい。祖父は91歳で亡くなったのだけど、遺影は5~60代だ。

ま、うちらしいっちゃ、うちらしいか。

 

隣のスーパーで、愛知では食べることのない「タンナファクルー」と、祖父の好きだった海鮮せんべいを買いに行っている間に、いつの間にか、親戚を含め、みんな揃っていた。僕は、お坊さんが来る前に、と、祖父の好きだった海鮮せんべいを仏壇に供えた。

 

 

時間を少し遡る4月のこと。

祖父に余命が告げられ、それを聞いた僕は元気なうちに祖父に会いたいと思い、宮古島に帰っていた。

その時、「これが一番うまい。食べなさい。」と、小皿ではなく、キッチンのテーブルにそのままこぼして、それを摘んで食べていたのが、この海鮮せんべいだった。確かに美味しかった。

この時もたくさんお話した。

比嘉大吾が体重超過で王座を剥奪されたこと(比嘉選手は宮古島で学生時代をすごしているので、宮古島全体、応援に熱が入っていた)。実はその日は、僕の誕生日であることを覚えていたこと。僕の息子のこと。愛知のこと。僕の体調のこと。

たくさんお話しをした。

そして、少し疲れたといって、自分の部屋へ戻り、眠りにつく。いつものように、ボリュームをマックスに近い状態にしたラジカセから流れる昭和歌謡を聴きながら。

 

僕は隣の部屋でipadをひろげ動画を観ていた。そして、やがて僕もいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

ハッと目を覚ますと、祖父はまたキッチンのテーブルに海鮮せんべいをばら撒いて、それを摘んで食べていた。

僕はそれを後ろから見ている。

祖父は、座ったまま、ジッ…と目を閉じ、時を旅しているように見えた。

いったい、何を思いだしていたのか。

 

 

 

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 下段、右から2番目が祖父。その隣が祖母。

 

 

僕は、実の父の事を知らない。物心をつく前から母方の実家、つまり祖父の家ですごしていて、祖父は僕にとって怖い父親のような存在だった。とはいっても、もちろん基本は優しいし、滅多に怒らないけど、怒ったときはさすがに怖かった。

でも、僕が火遊びで母の部屋でボヤを起こしたときは怒らなかったな…。

 

幼かった頃、晩御飯は祖父、祖母、僕の3名で食べることが多かった。

なにやら祖母がグチグチ言ってるのを、時には笑ってごまかしたりしていた印象がある。祖父と祖母は、会話が多い夫婦だったと記憶している。

 

大工の仕事をしていて、親戚のおじさんが言うには、技術が高かったので、信頼されていて、還暦をすぎてからも、しばらくは力を貸してほしいと現場に呼ばれていたらしい。

そういえば、この家のいろんな部分も祖父が手を加えている。いわゆるリフォームだ。

 

また、祖父は戦時中に今で言う高校生ぐらいの年齢の時に佐世保の造船所で働いていて、経緯は聞いていないが被爆している。 

つまり、被爆者だ。

こんなエピソードがある。

妹がまだ幼かった頃、祖父は急激に髪の毛が抜け(これが被爆の影響かどうかはわからない)、部分的に一気に禿げた。そんなある日、妹が突然祖父の頭をなでながら、「おじぃのあたま、はげてるね~。」と言い放ち、周囲を爆笑させた。もちろん祖父も笑っていた。

 

とにかく笑うときは笑い声が大きく豪快だった。

いつだったか、僕、妹、叔母の息子二人、要するに孫が全員集合した日に、テレビで志村けんのバカ殿をやっていて、みんなで爆笑したのをすごく覚えている。

 

 

そっか…。もう会えないし、もうあの笑い声は聞けないのですね。

今頃、祖母とあの頃のように、いっぱいお話をしているのだろうか…。

 

 

時間を11月24日に戻します。

お坊さんが来て、法要を終えたあと、夜、親戚やいとこのみなさんが来てくれて、手を合わせてくれた。

ひと段落すると叔父と飲みに行き、帰ると、もう午前0時を回っていた。

祖父の部屋からは、あの大音量の昭和歌謡はもう聞こえない。

以前より静かになったはずなのに、逆になかなか寝付けない。

また少しだけ泣いた。

 

宮古島にいる間、「忘れたくない」そういう思いが強くて、部屋の隅々を記憶したくて、ウロウロとうちの中を徘徊した。

妹に、ここでこんな出来事があったのだと、たくさん話した。

屋根裏にはたしか大量のレコードがあったはずと、覗いたけどなにも無かった。

今ではスーパーの敷地になってしまった部分も、ここは元々は我が家の畑だったことを思い出し、バッタや蝶を追いかける僕を重ねた。


あ!と思った。

どうやら時を旅していたのは僕の方だったようだ。

 

 

みんながそれぞれの生活の場所へ帰った次の日。

「また来るね。」

そう言って僕は宮古島を後にした。

 

そして僕は日々へと帰ってきた。

でもね、心を探ってみると、聞こえてくる。

祖父のあの笑い声と、大音量の昭和歌謡が。

 

 

♪しずかにしずかに、手を取り手を取り

あなたの囁きはアカシヤの香りよ

アイラブユーアイラブユー

いつまでもいつまでも

夢うつつ彷徨いましょう

星影の小怪よ

 


星かげの小径(小畑 實)

 

 

【戯言】丸選手の移籍記事で思い出すあの日【プロ野球】

ブログ再開します!

と言ったものの、今度は私用が忙しくなって、なかなかアップできてないので、すごい気持ちの悪い、やきもきした感じです。なので、場つなぎ的な感じで投稿します。

 

まぁ、ブログに書くほどのことでもないので、ツイートするだけにとどめようかと思ったのですが、Twitterでは文字数が足りないなり〜。

なのでブログで。

 

 

数年前の広島東洋カープの沖縄キャンプ。もうほとんど観覧者のいないサブグランド。

夕陽でセピア色に染まったグラウンドでは外野ノックが行われていました。

ノックを受けてる選手は3名ほどだったと思います。

そして、ひときわ大きな声を出していて、元気で活力みなぎる選手がそこにはいました。

 

それが、本日、巨人への移籍が決まった、丸佳浩選手でした。

 

丸佳浩 2018年 個人成績

プロ野球 - 広島東洋カープ - 丸 佳浩 - スポーツナビ

 

僕は横浜DeNAベイスターズのファンなのですが、あの丸選手の元気が気持ちよく、試合でみるたびに陰ながら応援してました。

FA移籍の報道があってから久しくなりますが、遂に決まったんですね〜。

 

昔の僕なら「また巨人かよ~(怒)」となっていたけど、最近はそういうの特にないな。

不思議なもので、やっぱ、巨人が強くないと寂しいというか、なんとなく張りがないというか、面白くないというか・・・。
憎っくき巨人軍が復活してくれたら、それはそれで嬉しいという思いです。

 

あの日の夕暮れ時のように、元気に声を出して、グラウンドで躍動して欲しいです。


丸選手、応援してます。

 

FA宣言の丸、巨人入り表明!「環境を変えて一からチャレンジ」 原監督直接出馬実った!!(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

そろそろ…

11月24日から2日間、僕は宮古島にいました。

祖父の四十九日の法要に参列する為です。

 

想うことが沢山あります。

それはまた落ち着いてから書くことにします。

 

宮古島はいい天気でした。

そして、僕が子供のころに好きだった、ギラギラとした朝でした。

 

今はセントレアから自宅へのバスの中。

もう少しだけ、想い出に浸っておきます。

 

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しばらくお休みします

こういう事、ブログに書くのもなんですが、

昨日、平成30年10月7日、日曜日の午後、

身内に不幸がありました。

 

当ブログを楽しみにして頂いてる方々には申し訳ありませんが、

当ブログは、11月いっぱいまでお休みをさせて頂きます。

12月からは通常通り開始致しますので、ぜひ、またお越しください。

 

今後とも、雑記ブログ「マシンガンと四天王」を宜しくお願い致します。

 

管理人:平良 潤

 

動画を公開しました

2018年9月2日投稿した記事

『【プロレス】ジョシュ・バーネット vs 鈴木秀樹【レビュー】』

 

の動画Verをアップしましたので、ぜひご覧ください。

 


【プロレス】ジョシュ・バーネット vs 鈴木秀樹【レビュー】

 

いや~…。

もっとトークがんばらなきゃ(汗)

【格闘技】『神の子』山本“KID”徳郁とそのツワモノたちを振り返る【懐古】

2018年9月18日 火曜日

ショックでした。

ほんの2~3週間前に癌であることを告白し、療養しているという情報があったばかりでしたので、あまりにも突然で、本当に残念で悔しく、そして悲しいです。

 

正直なところ、初めて彼の試合を観た時には、僕はあまり彼を好きにはなれませんでした。しかし、K-1に参戦しだしたあたりから、躍動感にあふれる身体能力と、印象に残るKO劇を連発し、レスリングをベースにした総合格闘技の選手でありながら、当て勘に優れ、世界で活躍する姿は、間違いなく、格闘技史上に残る、特別な輝きを放っていたと思います。

 

今回は、そんな山本“KID”徳郁さんを偲び、僕の記憶の中にある彼の軌跡を辿りながら、彼の前に散り、彼の前に立ちはだかったツワモノ達を紹介してみたいと思います。

 

 

修斗

まずはじめに、あなたは「修斗」をご存知でしょうか?

初代タイガーマスクである佐山聡さんが、格闘技理論研究の為に設立した「タイガージム」から始まった、日本総合格闘技の歴史そのものとも言える総合格闘技団体です。

ちなみに、「修斗」の意味は「斗(たたかい)を修(おさ)める。」からきてます。

wikipediaにある文言を一部引用すると、、、

 

当時、関節技などのサブミッションホールドプロレスにおける裏技的なものであり、プロでも「技は教えてもらうものではなく盗むもの」という風潮があり、やられることによって逃げ方を覚え、後輩にかけて覚えるという感じで技術体系が確立されていなかった。しかし、佐山はそのプロの技を一つ一つ言葉で説明して体で実践して生徒(素人)に教えた。これが現在の総合格闘技の源となっており、この佐山の大きな心がなければ現在の格闘技は存在し得なかった。

引用元:修斗 - Wikipedia

 

最後の「…現在の格闘技は存在し得なかった。」って言葉が凄みを持たせていますね。

 

1999年、僕は群馬県で暮らしていました。

その当時、テレビ東京で「格闘コロシアム」という番組が放送されていて、 その番組で、修斗の「佐藤ルミナ」という選手が、頻繁に特集されていました。

ルックスもよく、強くて、カリスマ性のある選手でした(現在は引退されてますが、7月のRIZINでTV解説されてましたね)。

近所にあるレンタルビデオ屋さんで、偶然にもその佐藤ルミナの試合が収録されたビデオを発見し、そこから僕は修斗をよく観るようになったのです。

あの当時の修斗佐藤ルミナの他に、エンセン井上朝日昇桜井“マッハ”速人(ここまで「修斗四天王」)、宇野薫中尾受太郎、巽宇宙など、魅力的な選手も多く、僕はすぐにハマりました。

しかし、仕事が忙しくなるにつれ、ビデオを借りることもなくなり、そのレンタルビデオ屋さんも、全く修斗の新作ビデオを入荷しなくなったので、僕はいつしか観なくなっていったのです。

 

修斗にいるヤバイ奴

2003年。

ボブ・サップvs曙が紅白歌合戦の視聴率を上回るという歴史的な瞬間が訪れ、大晦日の格闘技興行がもっとも成功した年。

格闘技ブームの風が吹き荒れる中、僕は「サルでもわかる総合格闘技入門」というサイトに出会いました。

1984年の旧UWF第1次UWF)が設立される経緯から始まり、2003年大晦日の曙VSボブ・サップまでの格闘技界の流れを、年別、そこからさらに月別に解説していた良サイトでした。

元々は、サイト運営者が、格闘技ブームの流れを受け、格闘技を好きになってくれた友人に対し、日本格闘技界の流れを説明するために立ち上げたサイトだという記述があり、HTML覚えたての初心者でも作ることができそうな、非常に簡易的なサイトでしたね。

CSS?なんですかそれ?おいしいのですか?」って感じです(笑)。

現在は閉鎖されていますが、僕はその「サルでもわかる総合格闘技入門」で殆どの知識を得たので、閉鎖はとても残念です。

K-1ではありますが、ものすごく似てるサイト発見!っていうか、まったく同じデザインと構成です。年別・月別に歴史をたどる…。これですよこれ!これ作成している人は、僕の言っている「サルでもわかる…」の作成者と同一人物で間違いないと思います↓↓↓

K-1 WORLD MAXの歴史 〜2001

 

そんな優良サイトで僕は、山本“KID”徳郁さんの名前を初めて目にするわけです。

この頃はまだ一般的には無名の存在で、その「サルでもわかる…」でもほんの数行の記述で終わっています。

 

修斗に『山本“KID”徳郁』というヤバイ奴がいる。」

 

こんな感じだったと思います。

ちなみにまだ無名だった五味隆典選手や川尻達也選手も同じような書かれ方をしてたと記憶してます。

(まだ無名だったのに、その3名の名前を出せるサイト運営者は本当にすごい格闘技が好きで、見る目のある方だったんだな、と思っています。)

 

僕は前述の通り、かつて修斗を好んで観ていたことから、なんとなく興味をもち、その名前を覚えていました。

ある日、バイト先にたまたま格闘技好きの子がいて、休憩時間が被った時には、プロレス・格闘技の話しに花を咲かせていました。

すると、なんとなんと、山本“KID”徳郁さん(以降「KIDさん」)の試合が収録されているビデオを持っているというではありませんか!

久しぶりに修斗を見たいという気持ちと、KIDさんの試合が収録されているということもあって、僕はその子からビデオを借りて、遂に、初めて山本“KID”徳郁さんの試合を観るわけです。

 

その試合が、勝田哲夫戦です。

youtubeにも動画がアップされている有名な試合です。

この試合、ゴング直後の打撃からグラウンドに持ち込んだKIDさんは、終始、上からパンチを振りかざし、1ラウンド2分45秒でTKO勝ちを収めるのですが、エプロン付近で完全にグロッキー状態になった勝田選手に尚も襲い掛かかり、審判が制止に入りゴングが乱打されるなか、止まることなく、舌をだしながら鉄槌を振り下ろす姿に、、、

 

「こいつは確かにヤバい奴や!」

 

と驚愕したものです。

 

この記事を書くときに知ったのですが、勝田さんが試合前に「彼は実績があるけど、俺が総合格闘技におけるレスリングってものを教えてあげますよ。」という挑発をしていて、それに対してプライドを傷つけられたKIDさんは激高し、このような事態になったようですね。

 

ただ、僕はこの試合を観て、正直あまり好きになれなかったのですよね~。

やり過ぎな感は否めなかったです。

頭部へのダメージは、下手したらなんらかの障害を残しますからね。

そんなデンジャラスな雰囲気をプンプンと漂わせるKIDさんが、当時、一大ムーブメントを起こしていた「K-1」に登場するわけです。

 

 

衝撃的だったK-1デビュー戦

2004年。K-1 WORLD MAX 2004 日本代表決定トーナメント。

すでに世界王者に君臨していたため、中量級エースの魔娑斗さんは不参加。

しかし、さすがK-1。ずらりとならぶ実力者。

KIDさんはそんなトーナメントに参戦することになるのですが、まずはその実力者達を数名ご紹介。

 

小比類巻貴之

「ミスターストイック」と称され、線香の束を腕に押し当てるという訳の分からない独りデスマッチを敢行したことで有名な小比類巻貴之さん。

実は全日本キック(という団体)時代では魔裟斗にも勝利している。あと、僕はキックは詳しくないのですが、なぜか「地獄の風車」こと故ラモン・デッカーさんの事は知っていて(強いです)、彼にも勝利してます。

話しは逸れて長くなりますが、ラモン・デッカーは、ムエタイの本場タイでKOを量産し、タイで外国人としては当時2人目(ちなみに1人目は日本の藤原敏男)となるタイトルマッチを実現しています。負けちゃったけど。

 

武田幸三

見事に作りこまれた体で「超合金」の異名をもつ武田幸三さん。

実は学生時代はラグビー一筋。

ムエタイの本場タイでチャンピオンにも輝いていることもあり(当時のムエタイの歴史上4人目の外国人チャンプに輝く)、このトーナメントのウルトラスーパーエクセレントオベーションジーザスクライスト優勝候補。

 

小比類巻と武田幸三が同じブロックに入ったのはちょっと残念でしたね。

できれば、決勝戦でこのカードみたかったかも。

まったくの余談ですが、個人的に小比類巻さんは、キック界の佐々木健介臭がします(笑)。

強いと思うよ。強いとは思うのだけど・・・って感じです(笑)

 

他にも、シュートボクシングの実力者、緒形健一さんもいますが、KIDさんが一回戦で対戦した相手が、村浜武洋さんです

村浜さんは、シュートボクシングでは無敵の時期があり、K-1では「前田憲作」さんにも勝利しています。

あの、前田さんにですよ(判定ではありましたが3-0ですし、二日前に大阪プロレスで試合した後です)。

前田さんといえば、めっぽう強い上にイケメンで、映画版ろくでなしブルースの主演やったりしていました。

魔裟斗さんの前の世代のスーパースターでしたが、wikipediaには「10年前の魔裟斗」なんて書かれ方をしています。

そんな前田憲作さんに勝利しているのが村浜武洋さんです。

その試合はニコニコ動画で今でも観れます。(久しぶりに観ましたが、レフェリーの猪狩さんの方に目がいってしまう(笑)懐かしいですね。今どうしているのだろう。何かの本で、初代タイガーマスクとの異種格闘技戦の相手として候補になってたというのを読んだことあります)。

 

そんなわけで、当時、村浜さんは大阪プロレスに参戦中だったとはいえ、立ち技のエリートであることは間違いなく、いくらKIDさんでも、立ち技オンリーの世界では勝てないだろうと思っていたのですが・・・

 

勝っちゃうんですよね~。

それも圧倒的に。

これにはびっくりしました。

改めてyoutubeで観ましたが、ノーガード殺法、躍動感のあるフットワーク、そしてパワーで村浜さんに何もさせずに合計3回のダウンを奪い完勝します(総合のような反則スレスレの攻撃を何度かみせますが)。

この試合にあたりKIDさんは、漫画「はじめの一歩」のブライアン・ホークのモデルとして有名なナジーム・ハメドのファイトスタイルを参考にしていたようですね。

wikipediaに書いてありました。だからノーガードなんですね。

というか、あれを参考にしようとする勇気たるや。しかも髪型まで真似してたようです(笑)。好きだったのでしょうね。

 

 

KIDさんはこの試合がきっかけで一気にブレイクします。

 

あ、実は、K-1ルールでの勝利はこの村浜戦だけというのを付け加えておきます。

 

 

「ヤバイ。カッコ良すぎる俺。」

その後、K-1では総合格闘技ルールで安廣一哉など実力者を次々と倒し、ジャダンバ・ナラントンガラグ戦後に、マイクを手に取ったKIDさんはリング上で、あのスーパースターに宣戦布告をします。

 

「年末、日本のみんな、ちょっとあれでしょ、景気あんま良くないし、年末俺が盛り上げたいから、魔裟斗君、二人で試合でもして、日本を盛り上げましょう。

 

と、さわやかに宣戦布告(笑)。

会場は一気に歓声に包まれます。

個人的にはこの後の「日本を盛り上げて、試合終わったら、また渋谷でも行って、二人で飲もうよ。」という発言が好きです。

いや~しかしこの頃のK-1総合格闘技は、華がありましたね。

 

そして、2004年12月31日、Dynamite!大阪ドーム

山本“KID”徳郁vs魔裟斗

僕は、仕事の都合でリゾートホテルのロビーでこの試合を観てました。

良い試合ですね~。

一度はKIDさんがダウンを奪うんですよね。

その後の魔裟斗さんのローブローで一瞬不穏な空気が立ち込めるのですが、終わってみれば名勝負となりました。結果は判定で負けるのですが。

 

翌年、「HERO'S 2005 ミドル級王者決定トーナメント」が開催され、当然参戦します。

思えば、KIDさんは2003~2005年あたりが強さのピークだったような気がします。

「ヤバイ。カッコ良すぎる俺。」で有名な膝蹴り4秒殺の宮田和幸戦は2006年ですが、この2003~2005年あたりが本当の意味で「ヤバイ。カッコ良すぎる俺。」だったような気がするのです。

理由はやはり対戦相手でしょう。

前述した村浜武洋魔裟斗をはじめ、HERO'Sのトーナメントでは、宇野薫須藤元気ホイラー・グレイシーを撃破しましたからね。

ちょっとそのトーナメントを振り返ります。

 

イアン・シャファー

一回戦の相手です。

あんまり知りません(笑)

「豪州のマシンガン」と言われているようです。

K-1ルールでは須藤元気さんに勝利してるんですね~。知らなかった。

 

この試合は、序盤ではグランドの展開もありましたが、ほぼスタンドでの打ち合いで終始します。

3ラウンド、強烈なアッパーカットがテンプルをかすめ、ぐらついたところ(なんというパンチ力!)で一気にラッシュ!KO勝利です。

 

ホイラー・グレイシー

二回戦。でました。黒船。グレイシー一族です。

この選手はwikipediaみると日本人とばかり試合してますね。肘が閲覧注意の桜庭和志戦とか、朝日昇とか。

この試合は、KIDさんの当て観のすごさが際立った試合のように感じます。

2ラウンド、開始30秒を超えたあたりでホイラーが放った膝蹴りが頭部をかするも、KIDの振り回すようなパンチがカウンターで顎にヒッツ!

完璧な一撃に腰から崩れ落ちたホイラー。

このトーナメントで最も衝撃的なシーンでした。

 

<宇野 薫>

準決勝。個人的にはレジェンド級の選手だと思っています。グラウンドに入ったときの雰囲気が好きです。

一時期、修斗を席巻した和術慧舟會の出身ですね。

修斗時代は、佐藤ルミナと共にファッション誌によく登場してました。その佐藤ルミナとの一戦でスリーパーで勝利した試合は、これまた衝撃的で今でも鮮明に覚えています。あの頃の佐藤ルミナはスター選手で、華があり、強かったですからね。

あと実は高校時代、パンクラス渋谷修身と同じレスリング部に所属してたりします。

 

この試合、KIDさんはなんかやりにくそうな感じでしたね。プロレスで言うところのスゥイングしない感じでした。噛み合わないというか…。

宇野薫が何度かタックルを試みますが、簡単にテイクダウンを奪われないところがさすがでしたね。

試合はスタンドの状態が長く、2ラウンドの終了間際、両足タックルを切ったあとの離れ際に宇野の即頭部にフック気味のパンチがヒッツ!宇野はガードしますが間に合わなかった。

これにより宇野は目尻のあたりをカット。一時中断しドクターによる止血が行われ続行されますが、出血は止まるどころかおびただしい血の量となり、レフリーストップ。

ゴングのあと、お互い抱き合い健闘を称えあいます。ちょっと完全決着できなかった悔しさがにじみ出てましたね。

KIDはこうして決勝へと駒を進めます。

そして、むかえた決勝戦

その相手は・・・

 

須藤元気

変化自在のトリックスター須藤元気

KIDさん同様、ホイラーからKO勝利してます。

でも僕が思い出すのはバタービーン戦ですね。あれは須藤元気だからできた一戦だったような気がします。体重差100キロ以上なんて、鬼畜です。

バタービーンがコールされたときの実況の「豚のように舞い、豚のように刺す」は名言ですな。

あと須藤元気のドロップキックっぽいのもみれます。

ちなみにこのときの審判は漫画「グラップラー刃牙」の刃牙のモデルである平直行さんでした。

 

さてこの試合はKIDさんのエンジン全開の試合でしたね。

相変わらず妙な動きをする須藤元気に対して、その周りを回るように距離をはかるKID。

ミドルキックをキャッチしたKIDがグラウンドに持ち込みますが、攻め手に欠け、ここはブレイク。

しかし1ラウンド終了間際、須藤元気が腰の入ってない不用意なパンチを放ったその刹那、カウンターで右のフックがヒッツ!(最後までヒットと言わない(笑))

なおもパウンドで追撃し、KIDが勝利!優勝するのであります。

 

僕的には、宇野、須藤に勝利したということが大きく、だからこそ、この時期のKIDさんがピークのように感じます。

 

その後、須藤元気は2戦した後に引退し、KIDさんは、レスリングで北京オリンピックを目指すことになります。

 

 

永遠の輝き

ここから先は、残念ながらあまりよくわかりません。

とりあえず、オリンピックを賭けたレスリングの大会で、投げられた際に肘が悲惨な状態になった映像はみましたし、その後、総合格闘技に復帰したのも知っていて、その試合も観てるはずなのですが、覚えていないのです。

UFCに参戦したのも知ってましたが、一度も勝てなかったですね。

 

改めて調べてみると、結構怪我に泣かされた選手でもあったのですね。それは知らなかったです。

 

やはり僕の中では、2000年代前半のKIDさんのインパクトが一番です。

あの輝きは間違いなく、格闘技ファン、そしてファンではなくてもブームとしてお茶の間でみていた人たちの記憶に鮮烈に残っていると思います。

沖縄にもジムを設立してたこともあり、訃報後、僕(沖縄出身です)のフェイスブックで「この前みたときは元気そうだったのに…。」という、格闘技に詳しくない人たちからのコメントも散見されました。

格闘技ファンならず、いろんな人がKIDさんの事を知っています。これはすごいことだと思います。

 

闘犬を反対し、勝利後にはいつも家族をリングに上げ、駅のホームで転落して気を失った老人を率先して助けたり、見た目やビックマウス、狂気的なファイトスタイルとは裏腹に、根っこは愛情豊かな人だったのかなと思います。

 

山本“KID”徳郁さんは永遠となりました。

また会えるかな…。

あの輝きは忘れられないでしょう。

さよなら。

神の子よ、安らかに。

 

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

 

 

動画もアップしました。


【格闘技】山本KID徳郁さん【懐古】