5月4日(月)晴れ
— たいらじゅんがつぶやくってよ (@backdrop_man) 2020年5月4日
気温22℃
目覚め良し
夕べは楽しかったな。ひとつの動画チャンネルにプロレス好きが集ってやんややんやしてさ。
毎週日曜日には生配信するということだし、日曜日の楽しみがまたひとつ増えた。https://t.co/SUnkUHYkDK #ファイプロ
夕べ、僕はこのようなツイートをした
この子に、過ちと罪の意識から助けてくれる存在がそばにいてくれるといいな。
— たいらじゅんがつぶやくってよ (@backdrop_man) 2020年5月3日
救いがあるといいな。#感染女性#虚偽報告
これは、この日記を書いている今現在もTwitterでトレンド入りしいている、東京から山梨へ帰省した女性の件の事を呟いている。
詳細は以下のリンクで↓
山梨に帰省の感染女性が虚偽報告「犬心配だった」 上京は陽性判明後 濃厚接触者も陽性(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
今現在も、彼女に対するバッシングが激しく乱れ飛んでいる。
そして思う…
愛がたりない。
いつも感じる。
悪いことを悪いと言うのは良いことだと思うし、むしろ必要だ。
今回の帰省の女性の場合は、虚偽もそうだし、他人へ感染させてしまったということも判明した為、そういう悪かった所はきちんと指摘されるべきだと思う。
ただ、彼女や芸能人(最近だとナイナイの岡村さん)のように、炎上する件については、罵詈雑言や罵倒、誹謗中傷が並び、反省して欲しいとか、何がいけなかったのかわかって欲しいというような、少しは手を差し伸べるようなツイートを見ることが、100あれば1ぐらいしかみない。
社会的抹殺。圧倒的な断罪。
正義を振りかざす言葉の数々が人間一人に集中し、人格を否定し、社会復帰の可能性を1ミリも残そうとしない。言葉のナイフは心を八つ裂きにし、生きることを許さない。
また擁護する者もその対象となる危険性があるので、擁護したくてもできない人達も多い。
いわゆる「魔女狩り」というのはそういうものなのかもしれない。
これは僕の性格なのだろう。いつも叩かれる側のそばに立ってしまう。
別に僕が「優しい人」というアピールをしたいわけではない。
僕は馬鹿だから、どの言葉を用いてこの気持ちを表現すればいいのか分からない。
慈しみ、いや、憐れみ、だろうか…。
自分で思う。
なんでこんな面倒くさい性格なんだろうなと。
正直、生きにくい世の中だと感じる。
とても感じる。
多数派のように、叩く側に立ち回ることができれば、痛みを覚えないし、楽に生きていくことができるのだろう。
ただ、どこか反発する心理が、今も心の奥底に眠っている。
最近よく目にする【叩かれて当然】【みんな我慢している】【協調性】という言葉に、拒絶反応や反発している自分がいる。
まるで10代。
遅れてきた反抗期だ。
僕はとりわけ、40歳を越えたあたりから「どうなりたいか?」よりも、「どう生きるか?」「どうあるべきか?」という、「生き方」を模索し、これまで以上に深く深く考えるようになった。
その僕の生き方のひとつに「誰にも左右されない自分」という我がままな思想がある。
全ての道は自分で決める。
人のせいにしない。社会のせいにしない。国のせいにしない。
周りの人がなんと言おうが、社会がなんと言おうが、道徳がなんと言おうが、自分の心に正直な方へ進むし、大切な人達に寄り添う。
そんな僕の心は、帰省した彼女は【叩かれて当然】だとは思わないし、【みんなが我慢している】という言葉は、がんじがらめに縛り付ける為の鎖のように感じるし、【協調性】は自由を奪う脅しにしか聞こえない。
そんな思想のひとつひとつが遅れてきた反抗期を生んでいるのかもしれない。
ただ、抗うことは簡単なことではないし、とても難しいことなんだけどね。
だめだ。話がまとまらない。
帰省した女性への過剰なバッシングについて思うことから、なんか自分の思想へと話が逸れてしまった。
でもね、心の中では、帰省女性のバッシングの件と僕の思想は繋がりを感じていて、どこかで響いていることを感じてやまない。
ただ、うまくまとめることができない。
伝わるだろうか…?
これも、勉強してこなかった報いかもしれないな。
彼女はいつか救われるのだろうか?
そもそも、傷ついていないかもしれないし、むしろ彼女は、罵詈雑言を浴びせるそんな世間に中指を立てて笑っているのかもしれない。
僕は彼女と1ミリも接点はないし、僕の人生には全く関係のない人物だ。
そんな彼女に「救われるだろうか?」なんて勝手に想像を膨らまし胸を痛めるのも無駄なことのように感じる。
考えれば考えるほど訳がわからなくなってきた。
ただ「何かが違う」と、違和感を感じた気持ちは、どうあろうと本当のことだ。
そう思えたことだけでも、いろいろな考えを巡らせることが出来ただけでも、僕にとっては価値のある瞬間だったのかもしれない。
おわり