「事実」と「真実」
本年度の本屋大賞を受賞した「流浪の月」を読了しました。
今回はその内容や感想ではなく、流浪の月で考えさせられる「事実と真実は違う」ということについて少し書いてみます。
話がややこしくなってしまいますが、今は別の小説を読んでいます(ネタバレになるのでその本のタイトルはふせます)。その小説に登場するあるエピソードを元に「事実」と「真実」について書いてみます。
たとえば、ある女性をモデルにした絵を二人の画家さんが描いたとします。それぞれ好きなように描きますが、二人ともその女性がとても大切にしているペットの犬も一緒に描きました。
・Aさんは、女性が犬を抱っこしている絵
・Bさんは、犬が女性を抱っこしている絵
女性はBさんのペットの犬が女性を抱っこする絵にとても感動しました。
現実的には、犬が人を抱っこするなんてありえない話なのですが、実は女性にとってその犬は間違いなく心の支えになっており、Bさんの描いた絵のほうが、女性の本当の姿に近かったということになります。
この場合、Aさんが描いたのは、ペットを飼っている女性という「事実」であり、Bさんが描いたのはペットに心を支えられているという「真実」だととらえられますね。
実際には今読んでいる小説では「事実と真実」なんて難しいことは書いていないのですが、この一説を読んだときに、流浪の月の「事実と真実は違う」というテーマを思い出しました。
話は変わりますが、先日、K‐1のチャンピオンである武尊選手のtwitterが炎上してました。
RIZINに移籍した際の皇治選手の発言に反応して武尊選手が不満を露にしたツイートをしたのですが、そのツイートに対してかなり厳しい意見が集中していました。
この件に関しても、やはり当事者以外は事実しか見えていないわけで、真実は本人達にしかわからないはずなのです。
だから、表面上のことだけをとらえて非難するのはなんか違う気がします。
なんか、もういいや。
そう思いました。
いや、「またか…」という感じです。
そういう「あれは違う」「これはこうだ」「こうあるべきだ」「非難されて当然」「間違っている」という、マウントの取り合いとか、正義の押し付けとか、人が人を言葉で攻撃する、そんな見たくないものが目に入ってしまう世界がいやで、先日僕はTwitterをやめました(それだけが理由ではないけど…)。
なんていうか、世の中ってこんなに疲れるもんだっけ?
なんだかなぁ…
とりあえず、なにも知らない状態で安易な発言をすることはやめようと思いました。
おわり